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![]() 感情移入について、創作としては抽象、具象、こういった境目が現れる、このおおまかな基準も、抽象芸術は人間と世界との距離がもたらす内的不安から生まれるものが多く、作品としては無機的、結晶的なものに美を見出す。具象芸術の場合、人間と世界との汎神論的な関係のうちに見出され、内在思考で、有機的なもの、心情的なものに美を見出す。それは心地よさで決まる。例えば東京のコンクリートに囲まれて住んでいる人間の自然は、まして僕のような田舎で育った人間には誇大に妄想されてしまうし、逆に自然の中で生活する人間にとっての自然の価値はもっと肌に触れるほど近い存在なので、具体的にうつる。自然から得る心地よさも違う。当然人に干渉する量も違うと思う。ネットは誇大に妄想することを、ある意味あきらめさせたと思う。自然を前にして、実際の光景よりも大きなものを実感したとしても、情報は写真だったり動画だったり、ネットを通じて集まる人間のある種多数決によって整理され、感情を持ちこむことによって起こるひずみ、表現主義の頃のように起こる現実とのひずみを排除しようとする。結果整理されたものに心地よさを感じるようになる。企業が生き物のように教え、その企業理念を聖書のように扱い、お金を稼ぐために染み込ませるのも、エラーを恐れた整理だと思う。ここに東京での生活の中心がある。エラーは恐ろしいもので、具体的な到達点があるほど、エラーは到達点から遠ざける。しかし、到達点もしくは到達過程が抽象的であるほど、エラーは創作の段階で、そのエラーを受け入れる土台さえあれば、到達点を変える猶予が多分に起こるので、湧き出る泉のような美しさを永遠に保つことができる。音楽に限らず、スポーツでも、企業でも同じように思う。誇大に妄想することは確かに人間の弱さであり逃げでもあると中国の思想家は言ったみたいですが、納得もできる部分はありますが、それはそのまま当てはまらないなどと思っていたら、感情移入について書かれたのがありました。 以下コピペ ヴォリンガー、抽象と感情移入 ウィルヘルム・ヴォリンガー(Wilhelm Worringer、1881-1965)の「抽象と感情移入」は、それが出版された1908年前後のドイツ表現主義や、当時の西洋社会に認知されはじめた未開芸術の新たな解釈を試みた芸術論である。題名にある抽象とは当時出現し始めた抽象芸術のことを表す言葉ではないが、その成り立ちをうまく説明する論文として、現在でもよく引用されている。ここで抽象の動機として取り上げられている恐怖感や抑圧と言ったモデルは、抽象を制作するに至る芸術家の心理や、作品の解読を試みる上では欠かすことの出来ない要素である。また、二十世紀のモダニズムが本格的に始動し始めた頃、先鋭的な芸術運動として未だ多くの発展的余地が残されていた頃に記された芸術論としても、その意義は大きい。 ヴォリンガーは芸術の歴史をギリシャ、ローマからルネサンスへと進む西欧の伝統、外界の科学的な観察によって統合される芸術的技能の歴史としてではなく、美的享受を客観化された自己享受であるとするアロイス・リーグル(Alois Riegl、1858 - 1905)が指摘した芸術意欲の歴史としてとらえ直そうと試みている。これまで未開のものとして退けられてきたアフリカやアジアからの作品が多大な影響を及ぼすようになったその時代において、感情移入(Empathy)と言う主観的方法だけではもはや芸術を説明しきれないのは当然である。20世紀初頭のヨーロッパは不安と不確実性が支配する時代だったが、そうした状況に影響されながら、芸術家は人間の予期不能な状態から抽象的な対象を探求し、それを絶対的な超越した形態へと変化させるという試みを重ねていた。フランスではフォーヴィスムが、ドイツではブリュッケが生まれ、ヨーロッパの芸術はその拠り所をより野性的で抽象的な未開の芸術に求めるようになるが、ヴォリンガーはこのような同時代の芸術を読み取る契機として、各時代における形態への意欲が、不安や恐怖をかきたてる人間を取り巻く世界にどのように反映するのかを、リーグルの芸術意欲と共に基礎的な心理学にも頼りながら考察した。結果的にヴォリンガーは、芸術を絶えざる不安を克服するための方法であると規定しつつ、恒久的な美学的形態を創造し、矯正することで達成される衝動を、抽象衝動として描き出すことに成功した。そこでヴォリンガーは、感情移入の要求が常に有機的なものへと向かうのとは逆に、芸術は自然からは独立したものであり、それゆえ抽象衝動では無機的な形態へと向かうのだと定義する。 このような抽象衝動を起こさせる心理的な前提は、諸民族が有する世界感情の内部にあり、それは彼らの宇宙に対する心理的な態度によく反映されている。こうした諸民族とは原始民族に始まり、それから多少の進化を遂げた東方民族のことで、文化的段階にあるとされる民族、つまりギリシャに始まる西洋民族においては、既に抽象的衝動は感情移入衝動に取り替えられてしまっている。その感情移入衝動で説明される高次の文化的段階とは、人間が外界の現象と親和関係にあり、宗教的には汎神論的で親和的な状態にある段階のことを指す。 一方、抽象衝動で説明される原初的な文化的段階とは、未だ人間は外界の現象に脅かされており、それがもとで内的不安が惹起されているような状況にある段階で、宗教的には超越的な強い観念に支配された状態にある。抽象衝動が起きるような状態とは、ある種異常な精神的な空間的恐怖にさいなまれた状態なのだが、そこで生まれる不安の感情がその芸術的創造の源泉となる。人間は外界の現象相互間の関係を見つめるとき、そこにある不明瞭性や恣意性、あるいは現象の変化極まりない状態だけを感知する。そして、そのような不明瞭で理解不能なものを取り除き、そこに必然性と合法則性の価値を見つけ出そうとするのだが、それは自然のうちにそのような価値を求めようとする心理が働くからではなく、むしろそれとは反対に、外界の只中に放逐されることで途方に暮れ、精神的な無力に陥るからである。自己の精神的な認識力によって外界の現象と親しくなり、それと親和関係を結ぶような機会が少なければ少ないほど、最高の抽象美を求めようとする力は一層強くなる。 原始的な思考との因果関係によって引き起こされる抽象衝動が生み出される芸術を、最も純粋で合法則的な芸術だとヴォリンガーは規定するが、それは無機的な芸術となる。感情移入の要求は常に有機的な形態へと向かうが、反対に抽象衝動によるそれは無機的な形態へと進行する。純粋な抽象は自然の原型には依存しない。自然を原型とする芸術的再現を強要するのは、模倣への願望である。抽象衝動とは古代の文化民族の芸術意欲の基礎であり、そこでは外界に存在する個々の表象を他の様々な物との結合関係や依存関係から解き放ち、生成の過程から離脱させてそれを絶対化しようとする努力に他ならない。 これら二つの衝動は、享受や自我と言う観点から見ても互いに相反するものとなる。感情移入衝動を基礎とする美的経験、美的享受とは客観化された自己享受である。そして、感情移入衝動を美的経験の出発点とすると、そこでは自己破棄の衝動が示されることになるので、自我はその美点や芸術作品が放つ幸福感を減殺するものとして否定的にとらえられる。一方、抽象衝動を基礎とする美的経験においても自己の放棄が求められるが、それは個人的存在を否定するためにではなく、衝動にとっての必然的を満たすために放棄される。その理由は、抽象衝動では対象が確固とした不動な物になるので、人間存在一般における偶然的なもの、なかでも有機的存在一般に現れる恣意を放棄しようという衝動が強く働くからであり、したがって生命そのものが美的享受の障害であると考えられるからである。ただし、そこでは芸術作品は自己の生命を自我のみから得ることになるので、自我との緊密な結合が図られる。 ところで、このような抽象衝動を引き受ける芸術において、個々の作品に最低限必要とされている条件とは何なのだろうか。そこでまず求められるのが作品の平面化である。ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)は純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならないと指摘し、また批評家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg、1909 - 1994)も概念的に抽象絵画を平面へと還元しているが、抽象衝動においても、平面化は重要な位置を占めている。実際に古代の造形芸術では、質量的現象として物を空間的にではなく、平面的に確立することに主眼が置かれていた。 芸術意欲の結果としてまず現れるのが、空間的描写の抑制による描写の平面化である。単一の形態を平面の中に再現する行為とは、完結した質量のある物の三次元的性質の把握には相反する行いである。したがって、このような状況で立体的空間を把握するには、それに連なる悟性や習慣の強い援助が必要になるが、結局こうした助けは客観性に主観性を呼び込むことで、純粋性を損なう結果を生んでしまう。古代の文化民族はこのような状況を悟り、純粋性を保つために、平面化を推し進めて行った。彫刻の場合においても、立体から煩わしい物を取り去ることが第一の課題となり、立体でありながらも、そこに平面感を与えることが、芸術的形式を獲得した証であると考えられた。立体における煩わしい物とは、不明瞭で変化の多い外界の事物に接する時に人間を支配するあの困惑や不安の痕跡のことである。不安と不確実性はあらゆる芸術的創作の出発点であり、抽象衝動を引き起こすための最後の想起なのである。 また、これとは別の視点で平面化を達成するためには、質量的個体をできるだけ客観的に表現する作業が必要になる。その作業を通じて、質料や個体の存在感を否定する空間の再現をできるだけ回避する。空間においては所々の物が結合され、物それぞれの個別的な完結性は否定される。空間は物に曖昧な時間的価値を与え、万有的な現象の中へとそれを引きずり込み束縛する。空間は物の個別化を妨げるので、あらゆる抽象への努力は、これを拒否しなければならない。何かを描く場合には空間を抑制するために、いかなる第三次的延長、つまり奥行を規制しなければならず、したがって描画は高さと幅への延長だけに制限される。あえて奥行きを表現するのであれば、線の省略と陰影によるものに限定される。描写が平面へと向かうと、輪郭や陰影での対象の満足した表現が不可能になり、このような方法では決して完結した質量的個体性の形象を得ることが出来なくなる。それを得るためには、深さの関係をできるだけ平面の関係へと置き換える作業が必要になる。 こうした平面化への取り組みからも理解できるように、自然の原型を質量ある個体として知覚するだけではなく、それを再現することが芸術意欲の真意となる。散漫だが確かな知覚要素の時間的継時と解される、純粋に視覚的な過程によって示される知覚要素の複合体によって、表象の全体像が獲得される。このように完結した表象全体の再生産によってのみ、人間は自身では知ることのできない物の絶対的な質量的個体性に最も近い代償物を見つけ出すことができるのである。 参考文献 ヴォリンゲル、抽象と感情移入 - 東洋芸術と西洋芸術、草薙正夫、岩波文庫、昭和28年 ウィルヘルム・ヴォリンガー、アロイス・リーグル、クレメント・グリーンバーグ、抽象と感情移入 - 東洋芸術と西洋芸術
by sukebass117
| 2014-01-09 19:33
| 雑記帳
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